2012.12.2
国分寺編第3弾!今度は国分寺といえばコレ!という史跡めぐりをしてみたいと思います。
地形散策しながら、史跡も巡れるなんて、盛り沢山な街…国分寺!
国分寺は奈良時代から武蔵国の中心地で、国府という役所の近くに建てられました。
当時不作や疫病の流行などがあり、仏に祈って国を守って貰おうという思想のもと、741年に聖武天皇が全国60ヶ所に国分寺と国分尼寺をペアで造らせました。
総国分寺は、奈良の大仏でお馴染みの東大寺です!
こちらの資料館は前回にも紹介した「国分寺市おたかの道湧水園」の中にあります。
入口が普通の家みたいですけど、中は充実した資料がたくさんありました。
例のごとく(?)こういったところはあまり人が居ないので、じっくりゆっくり見学できます。
こちらの資料館は主に国分寺跡の出土品を展示して、これまでの発掘調査の成果や、市内の文化財、国分寺跡の整備事業などが紹介されています。
私が一番テンションが上がって、いっぱい写真を撮ってたのが、国分寺本体ではなく、ハケの方でした。
現在関東地方で知られている白鳳仏の中でも最も古い像、銅造観世音菩薩立像。
ブラタモリで紹介された、というプレートが張ってありました(笑)
史跡から出土した瓦を展示しているゾーンでは、実際に瓦を触ることが出来るコーナーもあります。
資料館の外には、武蔵国分寺七重塔推定復元模型があります。
実物の10分の1のスケールで造られたものだそうです。
さらに、武蔵国分寺とは直接関係ありませんが、旧本多家住宅倉も現存しています。
国分寺市おたかの道湧水園の敷地は元々長く国分寺村の名主を務めた本多家の敷地なのです。
この倉は、江戸中期宝永5年(1708年)に建った倉で、その後明治33年に新築したという経緯があります。歴史ある建物で、国登録有形文化財に指定されています。
お鷹の道をずっと進んでいくと、現在の国分寺があります。
正式名称は医王山最勝院国分寺というそうで、新義真言宗のお寺です。
この楼門は、元は東久留米市にある米津寺の楼門だったものを、明治28年(1895年)に移築したものだそうです。
無知なもので、「楼門」がそもそもなんなのかよく知りませんでした。なんか宗教的な意味があるのかなーとか思ってました。
「楼門とは、2階建てで1重目には縁のみを持ち、最上重に屋根を持つもの。」
だそうで。建築用語的な意味合いに近いってことですかね?
また一つ賢くなった!
ところで、楼門について調べてて、門の種類ってたくさんあるんだな、と知ったのですが、「門マニア」の人絶対居るでしょ!
門巡りとかも面白そうだなぁ〜。
国府とともに政治・文化の中心として栄えた武蔵国分寺でしたが、鎌倉時代末に「分倍河原の戦い」で消失してしまいました。
武蔵国分寺跡と関連する遺跡は、他の国分寺跡と比べ規模が大きく、歴史的にも重要なことから、大正11年に国史跡に指定されました。
これが金堂跡。金堂というのは、今で言う本堂のことです。
点々とある石が、建物の礎石。
国分寺にはまだまだたくさん観るところがあります。
今回はほんの一握りだけ観てきましたが、時間をかけてでも全部巡ってみたいものです。
地形といい、史跡といい、なんかすごくいい街だなぁと思ったんですよね。
もう少し年を重ねたら、国分寺に住んでみたいと考えるくらい、なんか気に入っちゃいました。
また来よう!