日本三大茶「狭山茶」の秘密とは? 〜入間市博物館「ALIT」〜

学び


「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」という俚諺を聞いたのは多摩エリアに引っ越して来てからのこと。それまでは「ちびまるこちゃん」の舞台として劇中でもよく登場していた静岡くらいはお茶の産地として知っていても、他の産地はあまり意識していませんでした。京都の宇治はなんとなく抹茶のイメージはあったし、家族旅行で京都に行った際は抹茶スイーツを食べた記憶があります。

しかし、狭山。そもそも地方出身者からしてみれば、聞いたこともない地名だったし、もし今自転車を趣味としていなかったら、現在進行形で知らないままだったでしょう。

味でナンバーワンを謳う、マイナー茶どころ「狭山」の秘密と歴史を知るために、主生産地である入間市へ行ってきました。

入間市博物館「ALIT(アリット)」


入間市へは、青梅街道を西へ走り、残堀川と交差したところから川沿いを走ります。きれいに整備された走りやすい道です。カモもゆったり泳いでいます。しばらく川沿いを進んで、だるま市で有名な圓福寺の前の大通りを右折。都道166号→国道16号と道なりに進んだら、あっというまに入間市に到着です。


入間市博物館の「ALIT」は、国道16号から少し入ったところにあります。建物は段丘の上に建っていて、見晴らしが良いです。この日は富士山もひょっこり頭を覗かせていました。


不思議な名前「ALIT」は、「Art」「Archives」「Library」「Information」「Tea」の頭文字をとったものだそう。名前にもしっかりお茶が入っている押しっぷりです。

それもそのはず、この施設内の1階部分には日本でも珍しい「お茶の博物館」があるのです。「狭山茶」のことだけではなく、国内外のお茶そのものの歴史や生産・消費について幅広く取り上げられています。

お茶の博物館


館内のお茶ゾーンに降りてくると、最初に現れるのが、世界のお茶の風景を再現した展示。お茶の原産地中国や、チベット、イギリスなど世界各国でお茶がどのように親しまれてきたのかを垣間見ることができます。こうして並べてみると、同じ「お茶」でも、楽しみ方は本当に様々ですね。


世界のお茶の風景の後には、日本のお茶についての展示があります。はじめて日本にお茶が伝来したのは8世紀ごろ遣唐使が持ち帰ったことが始まりとされています。この頃のお茶は、主に宮廷で飲まれるものでした。その後、鎌倉時代に入ると「抹茶」が伝来します。各地の有力な寺院とも結びつき、室町時代には庶民の間でも普及し始めます。そして、江戸時代のはじめ頃に「煎茶」が伝わり、後に「蒸し製煎茶」の製法が開発されると、これまでにないさわやかな味と香りで煎茶はますます広まっていったのです。

狭山茶


埼玉県西部と東京多摩地域を中心に生産されている、狭山茶。東京側だと、瑞穂町や東大和市に茶畑があるのをよく目にします。そんな生産地の中でも、入間市は生産量がトップ。


茶畑が広がる武蔵野台地の中でも、この博物館も建っている「金子台」は関東ローム層が10メートル以上ある場所。ローム層の下には砂礫層があり、水はけが良く、お茶の栽培に適した土地なのだそうです。

栽培に適しているとは言え、実は茶は温暖多雨な環境を好みます。他の主な生産地は、中部・近畿・九州に集中しています。埼玉県は、茶の栽培が経済的に成り立つ産地の北限地帯。そのため、他の地域では年間3〜5回収穫できるものが、埼玉県では年間1〜2回しか収穫できないのだそう。

かなり不利に思えますが、その分寒さに耐えたことで肉厚になった茶葉が、甘く濃厚な味わいの茶へとなるのです。


狭山茶のもう一つの特徴として挙げられるのが「六次産業」。
六次産業とは、自家茶園で栽培した茶葉を自家の工場で製造加工し、自家店舗で販売する「自園・自製・自販」のこと。

栽培から販売まですべてを茶農家が行い消費者に直接届けられていたり、北限地帯で寒さに耐えた茶葉だったり、知れば知るほどなんだか好きになってきます。狭山茶恐るべし。

お茶以外にも。入間の歴史も学べます


入間市の地形や自然の特色を展示した自然の部屋や、旧石器時代から現代に至るまでの入間の歴史を展示した歴史の部屋などがあります。こちらもとてもおもしろくて、随分と時間を掛けて見入ってしまい、お茶ゾーンに辿り着くまでにすごい時間を要してしまいました。

特に興味深かったところをちらっと紹介します。

「東金子窯跡群」

武蔵国分寺の造営に使われた屋根瓦を製造した、武蔵国内の4つの有名な窯跡の内の一つ「東金子窯跡群」は入間市にあったといわれています。
加治丘陵の上に点在していた釜からは、何本もの煙が空に向かってたなびいていたそうです。


瓦には、それぞれの窯跡ごとに名を彫っていたのですね。

「板碑」

埼玉県内の板碑造立数は27,000基でなんと日本一。入間市内には約400基の板碑が確認されています。日本一の板碑が長瀞にあったり、現存する最古の板碑が熊谷にあったりと、数だけではなく様々な面で日本一を誇ります。「緑泥片岩」という板碑に加工するのに適した石の産地があるのが「板碑大国埼玉」の由来の一つかもしれません。

たしかに、埼玉は板碑を多く見かけます。それに伴ってなのか、大好きな石仏たちも多く見かけるのです。道端に佇む信仰物としては同じジャンル?
石仏に比べると「愛嬌」がないので、あまり好んで探したりはしませんが、埼玉を知るために板碑のことももう少し勉強しようと思いました。

「宝篋印塔の時代変化」

宮寺氏館跡から出土した宝篋印塔が展示してあったのですが、その上の解説が面白かったのです。

宝篋印塔というのは、元は宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔のことですが、後に墓塔・供養塔などに使われるようになった仏塔の一種です。石仏を見つけるために「石造物アンテナ」を張り巡らせながら街中を走っていると、結構どこでも見かけます。

解説によると、宝篋印塔は時代が下がるにつれ、笠の四隅にある「隅飾突起」が垂直から外側へ開き、最上部の「相輪」が大型化して彫刻過剰になっていく特徴があるのだそうです。

また一つ、まちあるきの楽しみが増えてしまいましたね。。

郷土博物館のおもしろさを再発見

子ども達の地域学習をメインターゲットにしているであろう、各自治体の博物館や資料館って、ニッチな内容なので一般的にはわざわざ行く場所って位置づけではないのでしょうけど、すごくおもしろいです。

今日知った小さな知識の島が、色んなまちの博物館で知った別の知識の島とつながって、大陸になっていく感覚が楽しいんですよね。何かを新しく知るというのは、ある種麻薬のように感じています。もしくは、かっぱえびせん。やめられないとまらない。